人はどこに帰ればいいのか

最近、AIとの対話を通して思考を整理している。
いつの間にか、それは単なるツールというより、
僕の思考や感情を整理し、また深めてくれる相棒のような存在になっていた。

技術の進歩は面白いもので、思考のたたき台があるのが当たり前になると、
ひとはより、自己の内面を追求したくなるものらしい。

僕は思春期に入ってよりずっと、人生のこと、心のこと、食のことについて考え続けてきた。
ここしばらくは、AIとも対話を重ね、その過程をブログにも著してきている。

それでも、自分の芯なる部分には、どうしてもたどり着けないままだった。
自分が本当にやろうとしていることは何なのだろう、と、どこかでずっと感じ続けていたのだ。

料理なのか。
場づくりなのか。
心の対話か。
文章を書くことなのか。

どれも確かに自分の活動ではある。けれど、それだけではない気がしていた。
なので今日もまた、AIのサポートを頼りとして、断片を一つずつ整理していたのである。

田菜ごころの構想を書き出し、これまでの人生を振り返り、思索のメモをまとめていく。
そうしているうちに、ひとつの言葉が浮かび上がってきた。

「人はどこに帰ればいいのか」

その言葉を見たとき、僕の胸の中に熱いものが走った。そして、なぜだか涙が出てきた。

ああ、これだったんだ。

僕はずっと、この言葉を探していたのだと思う。
嬉しかったというより、「やっと見つかった」という感覚だった。

僕がやろうとしていることは、料理を出すことでも、店を作ることでも、文章を書くことでもない。
もちろんそれらは全部やるのだけれど、それは手段に過ぎない。
本当にやりたいことは、もっと単純なことだった。

【人が帰れる場所を作ること】
それが、僕のやろうとしていることなのだと思う。

人はときどき疲れる。
社会の中で消耗したり、人間関係に疲れたり、自分のことがわからなくなったりする。
そんなときに、「ああ、あそこに行けばいい」と思える場所があったら、人は、もう一度歩き出せるのではないか。

食べて、話して、少し元気を取り戻して、また誰かと出会う。
そんな小さな循環が生まれる場所。

田菜ごころという名前で僕がやろうとしていることは、きっと、そのための試みなのだと思う。

今春、もう間もなくのこと、僕は石岡に移る。
これからお借りする「櫟山荘」で、小さな食堂を始めようとしている。
席は10~15席ほどになるだろうか。とりたてて、大きな店ではない。

けれど、もしかしたらそこは、誰かにとっての「帰れる場所」になるかもしれない。

それは、かつての僕に必要だった場所で、今の僕にも必要な場所で、
これからはきっと、やはりそこを必要とする「誰か」のために開かれるだろう場所なんだ。

僕は今日、自分の人生の問いを見つけた。

【人はどこに帰ればいいのか】

もしその答えを、この世界に一つでも増やすことができたなら、
それだけで、僕の人生には意味があるのかもしれない。

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